捕まえたら、おしまい

  捕まえたら、おしまい  




 求めるものがなにもないからといって、満たされているわけではない。
 体の中はいつも気の抜けた炭酸水のようで、しまりない。たまには弾けようと柄にもなくはしゃいでみるが、大抵は無残な結果に終わる。
 ただ喰うために働き、時間だけが早々と過ぎ去っていく中で、生きている意味などを考えると疲れた回答しか返って来ない。
 自分を見下ろす自分とはかくも正直で、無情で、怠惰で、傲慢なものだ。
「だったら結婚しちゃえばいいんじゃない」
 ベッドに勝手に寝転がっていた女が笑う。
「誰と?」
「あたしと」
 予想通りの返しに呆れ、俺は喫んでいた煙草をアルミの灰皿に押し付けた。
「馬鹿いうな」
「馬鹿じゃない。本気」
「あのな、付き合ってもいない女とどうやって結婚するんだ」
「じゃあ今から付き合えばいいじゃない。じゃあ一秒後からね、ハイどうぞ」
 女はベッドの上に座りなおすと、俺に向かって両手を広げた。
 一体何をどうすれば気が済むというのだろう。
 女は俺より一回り以上年下で、確か今年成人したばかりのはずだ。やせ細っているが美人で、透き通るような白い肌――比喩ではなく、近くで見ると本当に血管が透けて見える――と長い黒髪が印象的である。いつも清楚なワンピースなどを着ているが、それに加えて必ず腕と首に包帯を巻いているので、初対面の人間は大抵そのアンバランスさに眉を顰めるようだ。話をしてみると意外と常識人なのだが、時折意味不明な言動で友人らを惑わしている。
 家庭の事情、そして本人の精神状態の問題もあり、就学も就職もしていない。たまに俺の家に来ては他愛のない話をして帰っていく。泊まって行く時もあるが前途のように俺と彼女の間には何の関係もなく――強いて言えば年の離れた友人である――今後も友人以上の関係になるつもりは、俺にはなかった。
 ただ彼女の方は違うらしく――ただ、この女は本心を只管に隠す傾向にあるので、俺には何が真実なのかいまいちよく解らないが――好きだの、付き合うだの、結婚しようだのと言ってくる。最初は戸惑ったが、今ではもうすっかり慣れて「馬鹿を言うな」と返すのが決まりとなっていた。
「何がどうぞだ」
「あたしじゃ駄目?」
「そういう目で見たことない」
「体が気持ち悪いから?」
 彼女の包帯は、ファッションではない。 
 俺は煙草の箱を手に取った。先程吸ったのが最後の一本だったことを思い出して、片手で箱を握りつぶす。
「違う。そうじゃない」
「菅野さんはさ。自分でチャンスを潰してるんだよ」
 彼女は再びベットに横になると、俺を見つめて笑った。
 嘲るように。
「自分から逃げてるの。満たされることから……大切なものを作ることから。なのに退屈そうな顔してる。本当は欲しいくせに、諦めたふりをしている」
 一回り以上も年下の小娘に上から目線でとやかく言われる謂れはない。そう思ったが、図星だと思う気持ちもいくらかあった。
 枯れたふりをして逃げている。諦めたふりをして逃げている。
 ――何から?
 仕事から? 人間から? 人生から。
「傷つくのが怖いのよ」
「……そうだな」
 俺はあっさりと降参した。
 これも――逃げか。
「だからお前には手を出せない」
 出した途端、俺の中で彼女の存在は上位を占めることになる。それが怖い。大切なものを作ること自体が、怖い。
 守りきれる自信なんてないから。
「酷いね」
 それは当然の非難だと思う。もし彼女の今までの告白が全て本当だったら、俺は彼女を何十回と振っていることになる。しかも、本気で。
「お前自身が嫌だってわけじゃないんだ。ただ」
「一緒よ。そんなの」
 彼女はベッドから起き上がると、ソファに投げてあったカーディガンを羽織った。
 ――一緒か。
 そうだろうな。 
「菅野さんって、本当に最低」
 解っている。そんなことは。
「だから好きなんだけどね」
 解らない。……お前の言うことは。
「ま、せいぜい枯れたふりをしていることだわ。あとで後悔したって知らないんだから」
「……お前こそ、他に男捜せよ」
「バーッカ!」
 彼女はあっかんべーをして部屋を出て行った。妙なところが子供っぽい女だ。
 俺は握りつぶした煙草の箱をテーブルの上に投げた。
「……ばぁーっか」
 彼女の口調を真似してみる。上手くいかない。上手くいったところで何がどうなるわけでもないが。
 ――最低、か。
 馬鹿、なんて言う方より言わせる方が最低なのかもしれない。
 だが俺はまた彼女に馬鹿と言われ、それに納得して、離れて、また会って、それで。
 ――やっぱり最低じゃないか。
 解ってはいる。解ってはいるのに。
 俺はソファから立ち上がった。勝手に動いた体が部屋の外へ出る。携帯で連絡を、なんて考えていると玄関の脇に彼女が蹲っているのを発見した。
「サキ」
 側に歩み寄り、俺は彼女を抱き締めた。
 流石に驚いたのか、彼女が睫毛の長い大きな目を見開いて俺を見つめる。
 俺は言った。
「……で、この後どうすればいいんだ?」
 吹き出したあと、彼女は俺の腕の中で爆笑した。
 やっぱり解らない。けれども体の内側は変調をきたしている。熱くて、鼓動が早くて、それから――少しだけ、満たされる。
 だから怖い。怖いけれども。
 俺は笑い続ける彼女を見下ろして、思った。
 一歩踏み出してしまった。だからもう後には引けない。そして試練は、恐らく結構あっさりと早めにやってくるだろう。
 その時の自分を想像して青褪める。ろくな結果が描けない。
 けれども――やはり、満たされるのだろう。
 求めるものを見つけてしまったのだから。
 
 











 090705

 
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