レインボウ・ピープル〜飛沢くんの場合〜
最悪だ、と俺は心中で繰り返した。
最悪だ、最悪。
「飛沢くん、男の人と付き合っているの?」
大学からの帰り道で突然、話したこともなかった女に声をかけられた。顔と名前だけは知っている。同じゼミの池田だ。
無表情を装って「何の話?」と返したら、池田は近付いて俺に耳打ちした。
「この間、車の中でキスしてたでしょ?」
――最悪だ。
最悪だ、最悪。見られていた。よりによって、同じゼミの子に。
俺は茫然と凝固して、ただじっと池田を見つめた。
池田は恥らうように目を逸らすと、にこっと笑った。
「心配しないで。言い触らすつもりなんかないから。ただね、なんていうか……私、ちょっと感動しちゃって」
俺は眉を顰めた。感動、という言葉が引っ掛かったのだ。
気持ち悪くて頭おかしい、という学内で流れている池田の噂がふと頭を過ぎる。
やっぱりそうなのか。
「凄いなって思ったの。羨ましいっていうか」
「……なんで?」
不味いと思ったものの、つい反応してしまった。
一体何が羨ましいっていうんだ、あんなの。
「だって素敵じゃない。愛し合っているんでしょ?」
あ――。
俺は口を開いたまま沈黙する。
――愛……。
一体何が素敵だっていうんだ、そんなの。
「池田。誰かに言ったら、ただじゃおかないから」
俺は脅しめいたことを言うと、そそくさとその場から立ち去った。
――最悪だ。
知られてしまった。誰にも明かしたくなかった秘密だったのに。誰にも知られちゃいけないことだったのに。
――最悪だ……。
口の中に苦いものが広がる。居心地が悪くて死にそうになる。
どうしてこんな想いを味わう。どうして俺だけこんな目に――。
唐突に、ポケットに突っ込んでいた携帯電話のバイブレーションが鳴った。取り出してディスプレイを見てみると、そこには今絶対に口を利きたくない相手の名前が表示されていた。
鳴り続けるバイブレーションを無視して、再びポケットに携帯を突っ込む。その後、二回ほど同じ相手から電話があったが、俺は無視し続け――
「お前な……」
その日の夜、顔を合わせた相手から案の定、窘められた。
「電話に出ろよ。遅れるって伝えたかったのに」
「……出られなかったんだよ。メールすりゃ良かっただろ」
「何かあったのか?」
鋭い質問が放たれる。
俺は答えずにその人の――矢原さんの横に並んだ。
矢原さんは俺の六つ上で、高校受験の時に世話になった家庭教師だ。去年大学を卒業して、今は執筆業を生業としている。ジーンズにシャツ姿が多いから見かけはただの兄ちゃんって感じだけど、この若さで文芸雑誌に連載を持っている新進気鋭の若手作家だ。
俺は何故か、そんな文芸界の期待のホープと付き合っている。
大学の合格発表の時、受かったと告げに言ったらその場で告白された。俺はなんとなくいいよと頷いてしまって――それがいけなかったんだと思う。
矢原さんのことは嫌いじゃない。逆に凄く好きだった。良い先生と出会えて良かったと思った。出来れば、大学に入ってからもちょくちょく会いたいとすら思っていた。
でもそれは、人間として、という意味であって――
「……何食いたい?」
こんな風に、女扱いされたかったからじゃない。
「焼肉。……あのさ、外で待ち合わせすんの止めない?」
「え? なんで」
「……誰かに見られたら困る」
矢原さんは一拍置くと、少し長めの前髪を掻き上げた。
「そうか。誰に見られたんだ」
見られたことを言い当てられて、俺は息が詰まった。
苦しい。こんなのばっかりだ――この人と付き合うようになってから、ずっと。
「……同じゼミの子」
「男?」
「女」
「そう。……じゃ、今度から俺ん家にする?」
「嫌だ」
一ヶ月前に、矢原さんの家にはもう二度と行かないと決めた。
「……何もしないよ」
俺の考えを見透かしたように矢原さんが言う。
「ただ会って、飯食うだけでも駄目?」
「……解んない」
解らない、そんなことは。
何が良くて悪いのか、俺にはもう何も解らない。解らなくなってしまった。
「衛」
もうこんな関係は御免だと言えば良いのに、何故かそれが口に出せない。
弱味を握られているわけでも、脅迫されているわけでもないのに。
「……ごめん」
矢原さんはいつだって俺の心を見抜いている。だから謝るんだ。
優しい人だということは知っている。だからこんなのはもう。
こんなのは、もう。
「飯、いい。帰る」
上手く回らない口が単語だけを発する。口腔がやけに渇いていた。
俺は矢原さんの顔を見ずに言った。
「もう会わないから」
踵を返して背を向ける。俺は会社帰りの社会人の群れを掻き分けて、足早にその場を去った。
苦しさから逃れる為に縁を切った。切ってやった。
それなのに――何故か、泣きたくて堪らなかった。
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