白煙に抱き寄せられて

  白煙に抱き寄せられて  




 出張帰りに降り立った東京駅で、ケーキを買った。フルーツと生クリームがたっぷり入ったロールケーキを。
 今日は誕生日でもクリスマスでも、何かの記念日でもない。あくまで平々凡々とした日常の一日に過ぎない。
 でも私はケーキを買った。何故かは自分でもよく解らない。
 何しろ、私は甘いものが苦手なのだ。ケーキなんて十年くらい口にしていない。
 それでも私はケーキを買った。
 何をしているんだろう、と思う。
 出張帰りで疲れているのに、食べる気もないケーキを買って、私は誰も待っていない家に帰ろうとしている。
 こんな筈じゃなかった。
 ――うそ。
 それは嘘だ。今ある自分は過去の自分が望んだ結果なのだと、私は知っている。
 信号機が赤になり、立ち止まった。
 灰色の、曇天の空を眺める。
 いつも何かが足りないと思うけれど、それが何なのかいつも解らない。
 ――何が欲しいの。
 仕事もお金もあるのに。家族も友達もいるのに。
 ――……男?
 それはあまり必要性を感じない。なぜなら。
「……あれ?」
 私はきっと、恋愛とかいうものに向いていないからだ。
「ああ……やっぱり」
 隣りで信号待ちをしていた男が、珍妙な声をあげて私を見下ろす。
 長身の男を見上げて、ああと口を開いた。見知った顔だった。
「黄瀬……君」
「久しぶり。田村さん」
 黄瀬が微笑した。
 相変わらずイケメンだ。記憶の中の彼と変わらない。
「久しぶり。よく覚えてたね」
「覚えているよ、そりゃ」
 何がどう『そりゃ』なのか気になったけど、尋ねられはしなかった。
「懐かしいね。十年ぶりくらい?」
「そうだな。それくらいかも」
 心地良いバリトンが耳を撫でる。何もかもが変わらない。
 黄瀬とは大学生の頃、合コンで知り合った。同い年で、大学は違ったけれど、同じ文系で当時倫理学や哲学に傾倒していたという、地味な共通項が私達を引き寄せた。
 黄瀬は眉目秀麗かつ文武両道、おまけに聞き上手で、女によくモテた――けれど、彼は変な人だった。
 どことなく浮世離れしていた。
 まるで私とは違う、別の世界で生きているようだった。
「仕事帰り?」
「うん。大阪に出張していてね、今日戻ってきたの。黄瀬君は?」
「俺も帰り。今日は早く解散になって……」
 そう言う彼は、よれたダークグレイのスーツを着用していた。白いシャツのボタンを上から二個開けていて、ネクタイはしていない。仕事をしている人間の格好にはあまり見えなかった。
 どういう職業なのか気になったけれど、尋ねられはしなかった。
 いつもそうだ。
 尋ねられた試しがない。
 彼と付き合っていた時もそうだった。私は彼が何人家族なのか、実家はどこにあるのか、何も知らない。
 興味がなかったわけじゃない。それでも尋ねられなかった。そして彼も家や家族のことは話さなかった。
 だから私は彼の素性を知らなかった。
 だけど知らなくても、特に問題はなかった。彼は思いやりがあって優しい人だった。相手の立場になって物事を考えることに長けた人で、私をよく気遣ってくれた。彼と一緒にいる時間は穏やかで、とても幸せだと感じた。
 ――最初のひと月だけだ。
 付き合い始めてからひと月経って、疑心暗鬼に陥った。
 どうして私と付き合っているの。
 こんなに見た目が良くて、中身も非の打ち所のない人が。
 どうして私なんかと付き合っているの。私でいいの? 私の――どこがいいの。
 尋ねられない問いを身に溜めて、溜めて、溜めて――疲れてしまった。
 だから私から別れを切り出した。彼は驚いていたけれど、止めもしなかった。
 その時ようやく、そういうことだったのだと理解した。
「ねえ、黄瀬君」
 信号が青になった。黄瀬がえ、と尋ねる。
「どうして私と付き合っていたの」
 誰でも良かったんでしょう、あなたは。
 そういうことだったのだと理解した時、虚しかった。けれどそれは仕方のないことだとも思った。
 私だって、きっと――誰でも良かったから。
 あの頃の自分は恋に恋をしていた。恋が出来るなら相手は誰でも良かった。けど、恋した相手のレベルが想定以上で――結局、幼稚な私は彼に対応しきることが出来なかったのだ。
 ――そんな必要はないのに。
 対応しきるなんて、誰が相手だろうと出来やしないのに。
 それすらも解らなかった。子供だったのだ。
「……田村のことが好きだと思ったから」
 そんな答えは要らないのよ。
「でも引き止めなかったよね。別れるとき」
「引き止めたかったよ」
 なんだって?
「でも、どうしたらいいのか解らなかった。なんて言ったらいいのか……。喧嘩するのが怖かったのかな。否定されたくなくて……。子供だったんだ」
 呆然と黄瀬を見上げた。
 どこか遠くを見据えていた黄瀬は私を振り返ると、小さく笑った。
 優しくて暖かい笑顔。昔と何も、何も変わらない……。
「俺は本当に田村が好きだったよ。信じろとは言わないけど」
 眩しくて、目が痛い。
 俯いてアスファルトを眺める。視界の片隅で、信号を渡る人たちの足が齷齪と動いている。
「……信じるよ」
 私も好きだったから。
 そう続けようとした時、頭上からありがとうと声が聞こえた。 
 心地良いバリトンを噛み締めて、彼に向き直る。
「ねえ、ケーキ要らない?」
 手に提げていたケーキ屋の袋を掲げた。
 彼について知っていることが三つだけある。
 一つは読書が趣味だということ。
 もう一つは正義感が強いということ。
 最後の一つは、甘いものが好物だということ。
「私、食べられないからさ。良かったら貰ってくれない?」
「えっ……いいのか?」
「うん、貰って。黄瀬君ならこの大きさでも一人でいけちゃうでしょ」
「いけちゃうけど。いいのか、本当に」
 袋を受け取り、黄瀬は照れ臭そうに頭を掻いた。甘味を前にした時の彼の顔は、幾つになっても可愛い。 
「いいの。私の代わりに食べてやって」
「解った、ありがとう。頂くよ。……でも、貰ってばかりじゃ悪いなぁ」
「そう……それなら、煙草ある?」
「ああ、キャスターだけど」
「それ頂戴」
「開封済みだぜ」
「構わないよ」
 黄瀬はスーツの胸ポケットからキャスターの箱を取り出した。
「煙草、喫むようになったんだ」
「働きはじめてから、時々ね。……ありがとう」
 キャスターを受け取り、箱から一本抜いて咥える。
「あ。火持ってないや」
「貸すよ」
 黄瀬がシルバーのジッポライターを差し出す。点火されたそれに顔を近づけ、煙草に火を灯した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 顔を見合わせて、二人とも笑った。
 白煙が舞う。
 周囲にいた人間がばたばたと走り去っていった。信号が点滅している。
「また赤になっちゃう」
「待てばいいよ。青になるまで」
 黄瀬が軽く言ってのける。
 私はそうねと頷いて、彼の煙草を吹かした。
 十年前とは違う味がした。





















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