サンダル

  サンダル  




 背伸びをした。
 他の目にそう見えなくても、由子は背伸びをしたと思った。
 似合うと信じていた青いサンダルを由子は脱ぎ捨てた。足の付け根と踵が痛い。赤く腫れて皮が捲れている。靴擦れだ。絆創膏を貼るのも面倒で、そのまま放っておいた。
 由子は背伸びをした。十七歳になって初めて人の目を意識した。
 街中で同年代の女の子たちが履いているサンダルやミュールが欲しかった。母親に強請って、近所のスーパーに入っている名もない靴屋で、青いサンダルを買った。安売りのセール品だ。
 由子は生まれて初めて手に入れた、青いサンダルをいたく気に入っていた。茶の靴底に青いデニム生地の止め具。ヒールもそこそこ高く、歩くのに戸惑った。
「痛いの」
 拓真が抑揚なく問いかける。
 由子は黙って首を振った。
「歩きづらいんだ?」
 由子は答えずに膝を抱えた。
 今日はオールスターのスニーカー。これでも外見を意識しているのだと由子は思っている。
「暗いよ、由子ちゃん」
 拓真はそう言って煙草を吹かした。
 マイルドセブンのライト。由子にとっては煙草の煙の匂いなどどれも一緒だ。嗅いでいて不快になる。
「由子ちゃんさ。結局今年の夏は、それで過ごしたの」
 それとは、今履いているスニーカーのことだろう。由子は返事をせずに拓真を見た。
 拓真の髪は、男にしては少し長めだ。長髪という程ではなく、毛先が外側に跳ねている。髪の色は明るめの茶色で、耳にはシルバーのリングピアスが一つ光っていた。首にもシルバーのネックレスをさげ、煙草を持つ右手の人差し指には細かい装飾を拵えた幅の大きいリングが納まっていた。
 顔はお世辞にも美形とは言えない。スポーツマンタイプでもない。そこら辺に転がっていそうな、遊び好きな男の顔。服装も赤系のチェックのシャツの中に英字プリントの入った白いTシャツ、それに膝の破れたジーンズときている。街中でよく見る格好だ。
「何。俺の顔になんかついてる」
 微笑しながら拓真は由子に顔を近づける。
 居心地の悪さを感じて、由子は体を引いた。
「怖がらないでよ。とって喰ったりしないよ」
 由子はそんな心配はしていない。自分に魅力なんかこれっぽっちもないと思っている。なんせ夏用のサンダルを靴擦れごときでギブアップした女だ。今の格好だって、何の変哲もない黒いTシャツに、中学生の時から履き続けている色の薄れたジーンズだけである。 
 こんな格好で街中に来た自分が死ぬほど恨めしい。
「そんなに悲観することないと思うけどなあ。由子ちゃん、可愛いじゃん」
 そんなとって付けた様な世辞は要らない。
 由子は顔を背けた。拓真の吸う煙草の匂いが鼻を掠める。
 刺激が喉にくる。苦しい。
「いやホント。由子ちゃんは、可愛い。俺の可愛いの基準の中で、だけど。それが一般大衆と被るかどうかは知らないけど。けど俺は由子ちゃんを可愛いと思うよ。……それじゃ駄目ですかね」
 由子の顔を覗き込んで、拓真が笑う。目元が優しい。
 嘘だと思えない。
「……わかんないよ」 
 小声で答えると、拓真は「そっか」と言って煙草の煙を吹いた。
「じゃあこういうのはどうでしょ」
 携帯灰皿に煙草を押し付けて、拓真は微笑みかける。持っていたマイルドセブンのパッケージを由子に差し出して。
「さっきのサンダル。もっかい履いて俺のところに来なよ。それで少しでも君が上手く歩けたと自分で思えたなら」
 由子は煙草が嫌いだ。吸った事はないがあの煙には慣れないし慣れたくもない。けれど拓真は差し出したパッケージを戻そうとしない。仕方ないので一本取る。
 煙草は嫌いだ。けれど興味はある。まだ未開のものだから。
 拓真の百円ライターが火を吹いた。
「……少しでも、上手く歩けたと思ったら?」
「うん。そう思ったら、君の勝ち」
「勝ち?」
「そう」
 由子は火のついた煙草を咥えた。思いきり吸い込んでしまって、咽る。拓真の手が優しく背中を擦った。
 気を取り直して少しだけ吸ってみる。溜まった煙を吐き出した。いつも父親が作っている煙が由子の口から漏れた。
 少しだけドキドキしている。これ一本吸っただけで、身体の組織はどれくらい破壊されるのだろうと考えてみる。保健体育の授業で習った気がするが覚えていない。あんな退屈な授業、誰もテスト前じゃないと覚えない。
「上手いじゃん。吸うの」
「……嬉しくない」
「由子ちゃん、なんで俺に冷たいの」
「違う。本当のこと言ってるだけ」
「学校の友達にも、そんな感じ?」
「そんなわけないじゃない」
「ふうん。じゃ、俺だけトクベツだ。そりゃいーや」
 何がいいのか由子には解らない。
 それでもこの得体の知れない男に自分が全てを曝け出していることは解った。人付き合いは苦手なのに、こんな風に人と話せるなんて。それも異性と。
 学校での自分を知られていないからだろうか。互いに余計な先入観がないから、余計な障壁もなくなるのだ。普通、こういう場合その何倍もの警戒心を持つのだろうけれど。
「ねぇ、次の金曜、暇?」
 由子からの問いに拓真はにっこり笑って頷いた。
 由子は煙草を吹かしながら言う。
「じゃあここにいて」
 煙草をアスファルトに押し付けた。火が消えて吸殻だけが歩道に残る。捨てられた残骸を拓真が拾って携帯灰皿に押し込んだ。
 由子はそれを横目で見ながら、膝を抱える。頭が少し痛い。口の中が苦い。よくこんなものを吸っていられるものだ。
 険悪な顔つきをして下を向くと足元のスニーカーが眼に飛び込んできた。
 次の金曜はサンダルだ。
 由子は勝負に挑む覚悟を決めた。 








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