45点
45点
赤点っていくつだ、と原井が聞く。
「30点以下、だっけ」
中学校に入学して初めての試験だった。
平均点によるんだよ、と今野が知ったかぶる。本当のところは誰も知らないし俺も解らない。
「で、原井は何点取ったの。英語」
「……お前は?」
「秘密」
「今野は?」
みんなより少しだけ頭の大きい、苛められっ子の今野はにやけて答える。
「58点」
威張れる点数ではないだろう。案の定、原井が突っ込んだ。
「そんな点で威張るなよ」
「でも半分、超えてる」
「平均はもっと上だろ。恵、お前何点だよ」
「原井が言ったら俺も言う」
勿体つけて言うけれど、俺の英語の得点はたったの32点だ。この中の誰よりも低いのは解っている。試験勉強なんてまるでしなかった。
「恵」
原井と今野とは同じ小学校だった。昼休みにはいつも校舎全体を使って鬼ごっこをしたり、下駄箱でかくれんぼをしたりした。クラスのみんながいる遊んでいる体育館では遊ばなかった。
仲間だと思った。
「お前、俺っていうな」
「なんで」
「女だろ」
「だから?」
「やめろよ。もう中学生だぞ」
なんだよ、大人ぶって。
やだよ面倒くさい、と俺は顔を背けた。事実、直そうと思ってももう癖になっていて簡単には直りそうにない。
「似合わねぇんだよ。スカートに男言葉」
「ほっとけ。なんだよ、今まで何も言わなかったくせに」
「だって恵のこと、女と思ってなかったもんよ」
「いいよそれで。ずっとそう思ってろよ」
俺はスカートで胡坐をかいた。ハーフパンツをはいているから、中が見えてしまっても構わない。
原井は文句がありそうな顔つきをして、黙った。横にいる今野がそわそわしている。
俺は不機嫌に尋ねた。
「だから。何点だった、原井」
「……45点」
ほら、やっぱり俺よりいいんだ。
「おめでとう。俺、32点」
「うわ、ショボい」
「いいじゃん。成績で価値が決まるでもなし」
テストの点数なんてどうだっていい。義務教育なんて出席していれば卒業できるだろう。いや、出席しなくても卒業できるご時勢だ。
勉強なんてどうだっていい、高校に入れる程度の頭があれば。
「恵の価値って何だ」
原井が聞く。オプションは真顔。
何気に、強烈。
「テストで32点しか取れない奴に、価値なんかあんのか。しかもオトコオンナ」
「オトコオンナじゃねぇよ。原井だって45点だろ、同じだよ」
「違う。俺は勉強して45点、お前は何もしないで32点」
信じられない言葉を聴いた。勉強して、だって。
嘘吐け、生まれてこの方勉強なんかしたことないくせに。
「嘘吐き。原井が勉強してるとこ見たことねぇぞ」
「見せるもんじゃねぇだろ。やって45点しか取れない俺も俺だけど、お前よりマシ。よっ、この32点野郎。あ、違った、32点ちゃん」
俺が本当に男だったら今すぐ原井の胸倉を引っつかんで、一発お見舞いしたに違いない。
そうしないのは、ただ単に原井の反撃が怖いだけだ。兄妹喧嘩を嫌というほど味わってきた俺は、男と女の力の差を知っている。
殴るのは容易い。でも殴られるのは嫌だ。なんたって痛い。
「むかつく。原井のバカ」
「うっせぇ。確かに俺頭は良くないけど、お前はいいんだからさ。ちゃんとやってみろよ。何もしてねぇくせに国語は80越えてただろ」
今野が驚いている。でかい頭を揺らせて、もじもじしている。小学生のままだ。
だけど今の俺も、原井にはそう映っているのかもしれない。
小学生のままだ。
「だからやってみたら、もっとできるんじゃないの。なんだよ、32点て。お前その程度の男じゃねぇだろ」
「やめろって言いながら自分で間違えるなよ」
俺の突っ込みに、原井は首をかしげている。
何がその程度の男じゃねぇだろ、だ。
なんだよ、大人ぶって。自分だけ一人で先に行くなよ。
「あ。違った、恵は女」
「もういいよ」
男でも女でも俺は俺だし。
直すのも直さないのも、俺の勝手だし。
そろそろクラスの女子の視線が痛いし、同性の友達だって、本音を言えば欲しいし。
何時までも小学生のままじゃいられないことは解っているし、原井だって違う友達が欲しいだろうし。今野のことは知らないけれど。
「原井さ。ちょっと、変わった」
小学校の頃に二人で使っていた無地のらくがきちょう、まだ家にある。
白い紙にえんぴつでいっぱい描き合った。
創作のモンスター。
終わった漫画の続き。
テレビゲームの攻略の仕方。
机が隣同士だった頃、授業中にずっと描いていた。
宝物だと思っていた。
「つまらない」
「そうかな」
小学生のままだと思っていた。
今野が口を開く。
「変わらない方がおかしいよ」
おどおどしながらそう言った。
原井が今野を睨んで、頭を小突いた。一瞬だけ中学生になった今野は、すぐにまた小学生に戻った。
「変わってねぇよ、俺は」
付け足したようにそう言って、45点の男は背を向けた。
だったらどうして俺を家に入れてくれなくなったのだろう。
どうしてらくがきちょうを買わなくなったのだろう。
どうして他の男子と遊んでいるのだろう、俺を無視するように。
あたしって言えば、また遊んでくれるのか。そんなの違うだろう。
俺ははいているスカートを脱ぎたくなった。セーラー服のリボンも、外してしまいたかった。原井の黒い学生服も脱がして、私服を着せたかった。
でも結局どれ一つ実行できなかった。
原井の背中を見た。つい何ヶ月か前まで小学生だったのに、身体はその頃よりずっと大きくなっていた。身長だって俺と同じくらいだったくせに、今じゃ俺より五センチほど高い。俺より小さかった今野にまで抜かれそうだ。ずるい。みんな先に成長して。
俺は足元に転がっていた小石を蹴りつけた。前を行く原井の足元に転がった。原井もその小石を蹴った。小石は電柱に当たって、跳ね返って後ろに行ってしまった。
原井が振り返って俺を見た。
「恵。本屋寄って行こう」
俺は暫く黙った後に、静かに頷いた。原井はまた前を見て歩き出した。俺はその後ろをついて行く。その後ろを、今野が歩く。
原井の横に堂々と並ぶことができない自分が嫌だった。
後日、再び英語の小テストを受けた。
勉強したけれど45点しか取れなかった。
原井は何も言わなくなった。
それから俺は俺でいることを止めた。
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