塩味ビターチョコレート




 朝村美園はバレンタインという行事に興味が無い。
 そもそもチョコレートがそんなに好きじゃない。鼻腔にむわっと広がる独特の香りが許せない。好きじゃないものをこねくり回して、形成して、意中の相手に捧げるという行為に意味を見出だせない。
 理由を挙げるとするならばそんなところだ。しかしそんな美園に構わず、一月半ばもすぎると世間はバレンタインに標準を合わせはじめる。デパートやスーパーにはチョコレートを販売するための特設コーナーが設置され、雑誌には『大好きな彼への贈り物』、『今年のチョコはこれで決まり!』などといった記事が踊る。更にクラスメイトの女子の間では『あの子は誰に何を贈るのか』という探り合いがはじまり、義理や本命の有無、一目置かれかつ他の子と被らず友人間で浮くことのない友チョコの思案などのため、様々な情報戦が繰り広げられる。
 うんざりだ、と美園は思う。仮にも名門市立中学校の生徒なのだから、そんなことに頭を使う暇があったら勉強すべきではないかと生徒会の仲間に言ったら「枯れた老年教師かお前は」と笑われた。美園は「そうだね」と素っ気なく返した。
 自分の方が異端であることはよく承知している。だからバレンタインそのものに対して文句を言うつもりはない。騒ぎたいやつは騒げばいい。ただ、うんざりしている自分にそれを押し付けないで欲しいだけだ。
「で、美園は誰にやるの?」
 老年教師かお前は、と笑った男がそんな問いを繰り出してきて、美園は面を喰らった。バレンタインに興味が無いことは彼も知っている筈なのに。
「あんたじゃないことだけは確か」
 またからかっているのか、と思い美園は冷たく言い返した。
 クラスの違う同級生の生徒会会長はうそ、とつぶやく。
「絶対おれだと思ってた」
「……その確信はどこからくるの?」
「なんとなく。勘かな」
「それはお生憎さま。っていうか彼女持ちにチョコ贈ってどうすんのよ」
「世の中には義理チョコとか友チョコっていう制度があってだな」
「つまりチョコが食べたいのね」
「というよりは、ステータスの問題だな。おれ、チョコはそんなに好きじゃないから」
 悪びれずに言う生徒会長に、美園は溜息を吐いた。
 つまりこの男はより多くのチョコレートを入手して、優越を感じたいのだ。恐らく同性相手に。
「逆に甘ったるいやつを大量に贈りたくなってきたわ……」
「それでもおれは構わないけど?」
「やらないって。あんた結衣に横流しするでしょ」
 なんだバレてたか、と生徒会長は――加藤は舌を出した。
 結衣とは加藤の彼女だ。そして美園の親友でもある。小柄で髪の毛がふわふわしていて、女の自分から見ても可愛いと思う、俗にいう『守ってやりたくなる女の子』だ。去年の文化祭の時に加藤から告白され、以後二人は校内の名物カップルとして名を馳せている。
「だいたい、結衣に失礼だと思わないの? ステータスだのなんだの」
「結衣はおれの味方だよ。今年こそは『チョコレート貰った数ナンバーワン決定戦』で一位になってねって言われてるし」
 美園は校内で毎年開催されているくだらない大会を思い出した。確か有志の生徒が集って全男子生徒のチョコの数を集計し、それをランキング形式で発表するというものだ。男子にとってはたいへん残酷な大会ではないだろうかと美園は思う。
 加藤は生徒会長であり、成績優秀であり、顔も端正な方であるから、毎年上位に食い込んでいた筈だ。しかしわが校は有名スポーツ校でもあり、各部のエースには校内外にファンがいるので、いくら加藤といえども彼らから一位を奪取するのは至難の業だろう。
「あんた、サッカーの日本代表に勝てると思ってるの?」
「登る山は大きい方が、登りがいがあるだろ?」
「……呆れた」
 口ではそう言いながらも、美園は加藤のそういうところが嫌いではない。 
 むしろ好きだった。
 加藤が結衣に告白するまでは。
「あんたには一生、チョコなんてやらない」
「え? でも、一年の時にくれなかったっけ? トリュフかなんか」
 なぜ覚えているのだろう、そんな無駄なことを。
 美園は加藤に背を向けた。
「さぁね。覚えてない」
 そう告げて美園は生徒会室を後にした。

 一年生の時、美園は加藤と同じクラスだった。
 加藤は今はやりの塩顔イケメンというやつで、背もそれなりに高く、頭の回転が早かった。早すぎたせいか言動がややエキセントリックだったが、そういう型破りなところが美園には眩しく見えた。
 二年前のバレンタインの時、美園は生まれて初めて異性に贈るためにチョコを作った。甘さ控えめのトリュフチョコレートだ。器用な美園は味も形成もラッピングも完璧なチョコを作り上げ、それを加藤の机の中に忍ばせた。
 告白するつもりはなかった。だからメッセージカードなどはつけなかった。ただ、加藤がチョコを食べて、少しでもおいしいと感じてくれたら、それで良かった。
 だからホワイトデーに三倍返しとして大量の手作りクッキーを貰った時は、大層驚いた。どうして私だと解ったんだと問うと、加藤は「実は机に入れたところ、たまたま目撃しちゃってさ」とはにかんだ。
 貰ったクッキーを齧った美園は、嬉しいと思う半面、少し悔しかった。加藤が作ったクッキーはとても美味しかった。
 顔が良くて成績も良くてスポーツもそこそこで料理も上手いのかこいつは。そう思うとなんだかやりきれなかった。
 そう感じる自分の方がおかしいのだと、解ってはいたけれど。
「朝村?」
 誰もいない教室でぼうっとしていたら、誰かに話しかけられた。振り向くと、扉の付近に今年も例の決定戦でトップスリーに食い込むだろうクラスメイトが立っていた。
「どうしたんだ? 一人で……具合でも悪いのか」
「違うよ。大丈夫。仙堂はこれから部活?」
「いや、今日は中止。進路相談があったから」
 仙堂は入学当初からサッカー部のホープで、世代ごとの日本代表にも選出されている。三年だから既に部活は引退しているが、体づくりのために練習にはずっと参加しているらしい。美園とは一年生の時からずっと同じクラスで、一番仲良くしている男友達だ。そのためよくあの二人は付き合っているのではないかと噂を立てられているが、真実ではない。真実は――友達以上、恋人未満というところか。
「進路か……仙堂、内部進学だっけ」
「そのつもりだけど。朝村は?」
「んー。……実は悩んでる」
 内部の試験に通れば、他校を受験せずとも高等部に進学できる。だが美園は今と同じ面子で高校生活を送ることに対し、窮屈さを感じていた。
「でも、もう願書とか締め切りやばいんじゃないのか。それに急に進路変えるなんて」
「急じゃないよ。元々先生には、外部受けるって言ってたから」
 仙堂が目を丸くする。そうだったのか、と呟いて彼は美園の隣りの机に座った。
「じゃあ、なんで悩んでるんだ?」
 美園はさぁと首を捻った。
 正直、自分でもよくわからない。
「……逃げるのか」
 質問の意味がわからず、美園は「え?」と尋ね返した。
「加藤から。……逃げるのか?」
 美園は息を呑んだ。
 仙堂は美園の気持ちを知っている。加藤が気になってたことも、バレンタインにチョコレートを渡したことも、加藤が結衣と結ばれた時にああこれは恋だったのだと気づいて泣いたことも。
 そして美園も仙堂の気持ちを知っている。仙堂はずっと、結衣のことが好きだったのだ。友達でもある加藤と結衣が結ばれたと知った時、仙堂はぎこちなく彼らを祝福した。
 同時に恋を失った二人は、相手に同じ匂いを嗅ぎ取り、心を打ち明け合うようになった。時として寄り添い、慰め合い、称え合って、今ここにいる。
「違……、……わからない。……あいつの顔を見たくないのは確かだけど、でもそんなこと、自分の進路に反映したりしないよ」
 美園は素直に心情を吐露した。
「それに、あいつの件はもう過去のことだから」
「そうか。……そうだな」
 仙堂はそう返すと、美園から視線を逸らした。美園は何気なくその視線の行方を追う。仙堂は窓の外を眺めていた。窓枠の中のキャンバスに、冬のつめたい夕焼けが描かれている。
「……朝村がいなくなるのは寂しいな」
「何いってんの。……そんなこと言うの、仙堂くらいだよ」
「みんなそう思ってるよ」
「気休め言わないで。とっつきにくいって言われるし、私も自覚してるからね。今更だし……別にいいんだけど」
「よくないだろ。それはそうとして……」
 仙堂の視線が再び美園をとらえる。
 美園はどきっとして仙堂の茶色がかっている瞳を見つめた。
「加藤にだけは負けたくないんだ」
「え? 何……?」
「チョコレート選手権」
「は?」
「加藤にだけは負けたくないんだよ」
 仙堂が繰り返す。寂しそうに口端を上げて。
「朝村の一票が欲しいんだけど……だめ?」
 純粋に票を催促されているのか、それともチョコレートを催促されているのか。
 美園にはわからなかった。
 仙堂から顔を逸して、窓のキャンバスを見やる。つめたい夕日が沈みかけている。
「……私の票なんてなくても、仙堂なら加藤に勝てるよ」
「そうかな」
「うん。……でも、仙堂が欲しいなら、あげる」
 恐らくそれは義理でも本命でもない。友チョコでもただの一票でもない、なんの名前もつかないチョコになるだろうけれど。
 それでもいいのなら、と美園は前置きして言った。
「手作りはしないからね。コンビニで板チョコ買って渡すわ」
「十分だよ。できたらビターチョコにして欲しいんだけど」
「あれ、甘いの苦手だっけ?」
「苦手ってほどじゃないけど……チョコって香りが強いだろ。むわって鼻に広がってさ。あれがあまり得意じゃなくて……甘さ控えめのやつなら、まだマシかなって」
 美園は窓から目を離さずに「そっか」と返した。夕日を見送ったあと、暗くなった空と人の疎らなグラウンドを見つめて、外は寒いんだろうなと思った。
「仙堂」
「何?」
「私たち、気が合うよね」
 無駄に。
 寂しい気持ちと虚しい気持ちと嬉しい気持ちがないまぜになって、泣きたくなる。
 椅子の上で膝を抱え、美園は両腕に顔を埋めた。
 馬鹿だ。私は、大馬鹿野郎だ。
 ふと頭に何かが触れた気配がした。きっと仙堂の手だ。仙堂は優しいから、大きな手でいつも美園を慰めてくれる。
 それが幸せだと美園は思えない。だからこそ自分は馬鹿なのだと思う。
 大きな手が美園の頭を優しく撫でる。そうだな、と頭上から低い声が降り注いできた。
「気が合うよな、おれたち。いつも……」
 仙堂も美園も、それ以上なにも言わなかった。
 暖かい手のひらの感触を味わいながら、美園は声を殺して泣いた。