ああ、明日なんか見えない。

ああ、明日なんか見えない。




 コードが絡まって動けないんだ。
 天下一の馬鹿は確かにそう言った。



「言いたい事があんなら言え」
「変態」
 投げ捨てたビールの空き缶は、扉口にいたツトムに見事にヒットした。アルミが当たった鼻先辺りを擦りながら、不機嫌そうにツトムはずかずかと部屋に上がりこんできた。
「何すんだよ」
「理不尽な侮辱を受けるのは嫌いなんだ」
「ブジョク? お前さ、この状況じゃ変態って言われてもなーんもリフジンじゃないぜ? 十歳前後のガキと同居してるなんてな。この隠れショタが」
「一番最後のヤツ取り消せ。ちなみに同居じゃない、預かっているだけだ。だいたい性癖のことでお前にとやかく言われる筋合いはないな。え?」
「違う。違います。俺は男のケツに魅力を感じたりシマセン」
 終わりを迎えることのない罵り合いを不毛に感じて、会話を断ち切るようにツトムはソファに座り込んだ。
 真向かいの大きな三人がけのソファには、ハーフパンツに大きめの紺のワイシャツを着込んだ少年が膝を抱えて座っていた。ツトムのことを不思議そうな目で見つめている。
「で? なんなんだコレ」
「少年成長休止症候群」
「は?」
「読んで字の如く、だ。お前さっき、十歳前後って言ったな。残念ながらソレの本当の年齢は満十八歳」
「……信じろって?」
「事実だ」
 溜息と共に言葉を吐き出して、コウは咥えた煙草に火をつけた。
 ツトムは怪訝な眼つきで腐れ縁の友人を見つめた。
「なんでそんなもんお前が預かってんだよ」
「……押し付けられたんだよ」
「誰に」
「裏世界のアホ」
「ああ、お前のお師匠さん?」
「だから弟子になった覚えはねぇっつの。それを人の弱味に付け込みやがって、あの野郎……」
「苦労してんな、お前」
「しみじみ言うな。むかつくから」
 コウは荒れた手つきでがちゃがちゃとキーボードを叩いていた。部屋には数台のパソコンと、それを統合するコードが床に張り巡らされている。蛸足配線どころではない。
 相変らずだな、とツトムは無関心に思った。
 本当に相変らずだ。高校時代からちっとも変わっていない。
「話し戻すけど。そのガキ……中身も止まってんのか?」
「いいや」
「それにしちゃあ、アレじゃね? 感情の起伏が全く感じられないんだけど」
「少年成長休止症候群は、外見だけの症状だ。中身まで成長が止まるわけじゃない。ただしソレは今、記憶障害に陥っている」
「キオクショーガイ?」
「要はぶっ飛んでる訳だ、病気になった原因から経緯から、全て」
「そんでお前は荒れてるってわけか」
「それだけだったらな。そいつが患っているのは記憶障害だけじゃない。感情まで欠落してやがる。ただの人形だ、人のかたちをした」
「ふうん。羨ましい限りだな」
 ツトムは勝手に開けた冷蔵庫から取り出した缶ビールを開けて、一口啜った。台所を見渡して酒の肴を探すが、それらしいものは見つからない。
 台所でうろうろしている訪問者を眺めながら、コウが吐き棄てた。
「……堕落者」
「俺はちゃんと税金払ってるぜ。お前と違って」
「社会からはみ出してなきゃ正常だとでも思ってんのか?」
「表向きちゃんとしてりゃ社会は認めてくれるんだぜ。援交してる女子高生も髪が真っ黒で膝下スカートなら大人は疑わないだろ」
「何ガキみたいな言い訳してんだ。お前成人して何年だ?」
「三年じゃん、まだ。お前はすっかり大人漬けだな。いらねえ所にまで干渉しやがる。コドモに一番嫌われるタイプ」
「……ガキは嫌いだ」
「あっそ。でも俺は別に大人にならなくていい。外見が成長しても、社会に制約されても」
 ガキでいい、とツトムは続けてビールを仰いだ。
 ソファに座り込んでいる少年と眼が合う。彼は愛らしい眉を顰めていた。可笑しなものでも見つめるように、少年の顔はどこか歪んでいる。感情が欠落していても、記憶がなくても、醜悪なものには怪訝と嫌悪を覚えるらしい。ツトムにはそれが可笑しかった。
 嗤いたければ嗤え。
「あのねーツトムくん」
「……何コウ、キショイ声」
「社会ってのは幸せの基準でさ。均衡を保つ為にある。つまりはその枠の中に収まっていりゃ、制度内で定められているある程度の権利っていうのは保証されるわけだ。解るか? お馬鹿でお子様なツトム君」
「……はい?」
「その枠から出るのは簡単だよ。でも戻るのは物凄く困難だ。その上、外は無法地帯だぜ。保証はどこにもない。どんなに生活が安定しても」
「なんの話」
「お前が死んでも責任は誰もとってくれないし誰も認めてもくれない。でもそういうのは、俺から言わせれば幸せじゃない」
「……なんの話?」
 不意に、正面にいた少年が微笑んだ。――のを見ていた所為で、ツトムはコウの表情を見ることが出来なかった。
 腐れ縁は静かに呟いた。
「幸せになれ」
 胸を打つ言葉を聞いてもツトムの心臓は反応しなかった。
 またパソコンの画面に向ってしまったコウの背中を見つめながら、奴の顔を見てみたいと凄く思った。それでも身体はいっこうに動かなかったから、やはり少なからず自分は緊張していたのだろう。
 また少年が微笑んだ。口が少し動いている。
 シ・ア・ワ・セ。
 どうやらその言葉に反応するらしい。しきりに唇を動かしている。
 シ・ア・ワ・セ。
 繰り返す少年になんとなく嫌悪を覚える。だからこそ自分はまだまだ子供なのだとツトムは思った。この少年の方が、もしかしたらずっとずっと大人なのかもしれない。
 枠に拘っているのはアウトローな生き方を貫いているコウではなく、社会の中にいるつもりで体の半分以上が外にはみ出ているツトムの方なのだ、と。
「……お前、時々坊主みたいなこと言うよな」
「どういった解釈をしたらそういう感想が生まれるんだ……?」
「だからさ。生きるなら幸せを目指して生きろ、出来なきゃ死ねって話だろ」
 コウが手を止めてツトムの方を向いた。驚いているわけでも、怪訝な顔をしているわけでもない。無表情に近い。透明なツラだな、とツトムは頭の片隅で思う。
 理解なんかしなくてもいいし、出来なくても問題はない。いくら御託を並べてもツトムは生きるし、死ぬ時は死ぬ。
 人は干渉し合って、傷つけ合いながら成り立つものだ、と昔、嘘吐きの刑事から教えられた。幸せなんて探しても一生見つけられない奴はどこにだっているし、統計を計れば今の世界じゃ不幸な人間の割合の方が多いかもしれない。
 地球は広いが人間の視野は狭い。植物は寛大だが動物は短気だ。自然災害は不幸ではなく天啓なのだ、とどこかの学者が言っていた。止める術は我々には存在しない。世界を手中にする権利などありはしないのだ、と。
 一つ一つはちっぽけな存在なのに、一人が怖いから群れようとする。
 みんな明日ぽっくり逝くかもしれないなんて可能性を信じない。
 幸せだけを求めて生きる人々。
 傲慢で勝手で、でもそれは見ていてとても清々しい。それが常世の常識だからだ。
 不幸だけを求めて生きられはしない。
 明日を予告して生きている人間がいれば、それは本当の不幸で、自分が不幸だと思っている不幸者は、多分不幸じゃない。
 ――まだまだマシです。俺なんか全然軽い方です。
 心の中でツトムは反論してみる。
 それでもコウの目には重症と映るらしい。
 麻薬ジャンキーだから当然か。
 ツトムは言った。
「……努力してみる」 








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